長岡京・平安京遷都を命じた桓武天皇の実父にあたる光仁天皇の勅願所であり、明治政府の要人として活躍した有栖川宮熾仁(たるひと)親王をはじめとする有栖川宮家の祈願所であるなど、神峯山寺は中興時から皇族と深い繋がりを持った古刹です。
「行者」とは、「修行するもの」という意味。彼は自然を崇拝する者として厳しい修行を重ねて悟りへと近づき、修験道(しゅげんどう)の開祖となりました。実に、日本における行者や修験道の歴史は、国内に仏教が伝播するよりもさらに古く、今もなお時を刻んでいます。
開山当時、神峯山一帯は山岳信仰が盛んな霊場として知られ、比叡山や葛城山に並ぶ「七高山」として多くの修験者が行き交っていました。 ここでは、神峯山寺の山岳信仰について紹介していきます。
日本における毘沙門天の出現は諸説存在しますが、1300年余りに渡る神峯山の歴史は、紛れもなく毘沙門天と共に刻まれたものでした。時代を超え、身分を超え、信仰を超え。人々が奉った神峯山寺の毘沙門天とは、一体どのような存在だったか。その片鱗をここで紹介します。
神峯山寺のご本尊・毘沙門天は本堂に、横ではなく縦に三体お祀りしています。
一番手前、内陣に祀られています毘沙門天、真中の中内陣に祀られています双身毘沙門天、一番奥の内内陣に祀られています兜跋毘沙門天、この三体すべてが神峯山寺のご本尊です。
天台宗寺院として皇族と深く関わる一方、平安後期に人々を救済する阿弥陀信仰が栄えました。ここでは、神峯山寺の阿弥陀信仰の歴史と特徴について詳しく解説していきます。
多くの参拝者が山門をくぐり神峯山の地を訪れます。現在、神峯山寺は三つの巡礼札所として登録されており、本坊(宝塔院)では巡礼に回る参拝者に向けそれぞれのお札を用意しています。