幕末から明治にかけての皇族、伏見宮邦家親王、有栖川宮熾仁(たるひと)親王らは、神峯山寺に直筆の掛軸を残しています。日本における毘沙門天の出現は諸説存在しますが、1300年余りに渡る神峯山の歴史は、紛れもなく毘沙門天と共に刻まれたものでした。時代を超え、身分を超え、信仰を超え。人々が奉った神峯山寺の毘沙門天とは、一体どのような存在だったか。その片鱗をここで紹介します。
日本では四天王の一尊としても奉られる武神・毘沙門天は、その雄々しい姿から「戦いの神」「勝利の神」として広く知られています。戦国武将・上杉謙信が自らを毘沙門天の転生であると信じ、奉ったのは有名な話。この神峯山の地にも、南北朝時代に河内武将・楠木正成が、室町時代に将軍・足利義満が帰依した謂れが残っており、中でも大和国の戦国大名・松永久秀は神峯山寺の毘沙門天を手厚く信仰したとされています。
乱世から太平の世に時が移ると、武家による信仰が厚かった神峯山の毘沙門天は、「商売繁盛の神」として商人からも奉られるようになりました。これは、幸福をもたらす「七福神」の一人に、毘沙門天が名を連ねていたことも深く関係しています。神峯山寺の南方約10kmを流れる淀川は当時、交通の要所として数多くの商人達が往来しており、中流にあたる「三島江」には現在も豪商・鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)が立てた参詣道標石が残っています。
また、境内には鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)が神峯山に足しげく通った記録が残っており、以降、神峯山寺の毘沙門天は関西で活躍するあまたの企業家・政治家に愛される神として今日も本堂に鎮座しています。また、冒頭で触れた掛軸しかり、近代では伏見宮家、有栖川宮家をはじめとする天皇直系の皇族との関係を示した書物が残されています。
こうした皇族と神峯山寺の毘沙門天との繋がりを紐解くには、奈良時代後期へと再び時を遡らなければなりません。桓武天皇の実父であり先代・光仁天皇は774年(宝亀5年)、同じく息子の開成皇子に神峯山寺の中興を命じました。これは当時、既に毘沙門天を修験道(山岳信仰)の本尊としていた神峯山一帯を、仏教思想で統一する目的があったのではないかとされています。
毘沙門天の起源を辿るために、更に時代を100年遡ります。当時、各地の峰々を信仰の対象としていた修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)は683年、神峯山の地で金毘羅童子(山の神)に出逢い、お告げにより伽藍を建立。童子は霊木から四体の毘沙門天を刻み、一体は神峯山寺に留まり、第二は京都・鞍馬山へ、第三は奈良・信貴山へ、第四は神峯山の北峯へと飛び去ったとされています。
神峯山寺の毘沙門天がもたらした影響は、これに留まりません。最澄を開祖とする天台宗の流れを汲む神峯山寺は、天台宗より派生し平安後期に民間で栄えた阿弥陀信仰(浄土思想)とも深く関わっています。特に、比叡山の高僧・良忍は、鞍馬寺の毘沙門天に促され融通念仏宗を開いたとされ、その弟子・忍恵は神峯山寺の住職となりこの地で融通念仏を民衆に広めたと言われています。
歴史を一つひとつ辿れば、神峯山寺は時代が移る度にその存在価値を変え、時を積み重ねる度にさまざまな信仰が融合し在り続けた寺院であるということが分かります。そして、神峯山という峯で交錯した多様な信仰の中心には、常に毘沙門天が時空を超え鎮座していたことも理解できるのではないでしょうか。1300年余りの時流を、雄々しい目で見守り続けた神峯山寺の毘沙門天は、唯一無二の独尊と捉えることができるかもしれません。
(参考:神峯山寺秘密縁起)