行者の歴史

険しい山々を、
畏れ敬う修験者達

神峯山寺を開いた役小角、通称役行者(えんのぎょうじゃ)。彼は、奈良・葛城山より神峯山寺の九頭龍滝の水しぶきが光るのを見て、この地にやってきたといわれています。この「行者」とは、「修行するもの」という意味。彼は自然を崇拝する者として厳しい修行を重ねて悟りへと近づき、修験道(しゅげんどう)の開祖となりました。そして、修験道が始まった奈良時代から、「修験道(山岳信仰)のもとで修行をするもの」を、行者(修験者、山伏とも)と呼ぶようになったのです。実に、日本における行者や修験道の歴史は、国内に仏教が伝播するよりもさらに古く、今もなお時を刻んでいます。

彼らの装束は仏教僧とは全く異なり、いわゆる山伏の姿です。頭巾(ときん)と呼ばれる小さな帽子のようなものを乗せ、鈴懸(すずかけ)という装束をまといます。ほら貝や護身用の刀も身につける場合もあります。ちなみに、物語に登場する天狗の姿は、行者の装束がもとになっています。

役小角 役小角
九頭龍滝 九頭龍滝

日本古来の
民間信仰として

彼らはなぜ、険しい山々を修行の場としたのでしょうか。これには日本の地形が大きく関わっています。国土の7割が山という日本では、人々と自然のつながりは生死に関わる密接なものでした。山野の豊かな自然が恵みを与えてくれる一方で、森林に棲む動物にいつ襲われるかもわからず、一歩足を踏み外せば深い谷へとまっさかさま。つねに、自然の脅威と隣り合わせだったに違いありません。落雷や大雨などの自然現象も、古代の人々にとっては山の怒りそのものでした。

このように、自然と共存した暮らしの中で、人々は山を信仰の対象として敬うことで怒りを鎮め、自らの身を守ろうとしたのです。それは次第に修行へと形を変え、行者となったものはひたすら山々を歩き、滝打ち、断食、火渡り、座禅などを通じて自らを律していきました。つまり、修験道とは民間から生まれた民間のための信仰であり、行者もまた、ごく一般的な俗人から生まれたのです。修行の場は、奈良から大阪にかけて連なる葛城山、金峯山、大峰山、神峯山、そして鞍馬山、比叡山などで、今なお多くの行者が荒行を重ねています。

行者山 行者山
行者山の開山堂跡 行者山の開山堂跡
行者山の開山堂跡 行者山の開山堂跡

仏教との融合、
数々の転機

彼らにはじめの転機が訪れるのは、平安時代後期のことでした。大陸から仏教が本格的に伝わり、中でも最澄による天台宗、空海による真言宗の台頭により、仏教徒との融合を余儀なくされます。しかしながら、彼らが弾圧されることはありませんでした。なぜなら、山岳信仰はもともと神仏混合であること、仏教にも山を畏敬する念があったためです。これは、最澄が比叡山に、空海が高野山に寺を開いたことでもわかります。

役行者 手植えの菩提樹 役行者 手植えの菩提樹
役行者 笈掛石 役行者 笈掛石

このように、彼らの歴史は、時代の移り変わりとともに登場する新しい信仰と融合する歴史でもありました。明治時代になると神仏分離令の流れから修験道禁止令が施行され、行者の歴史は終わりを迎えるかに見えました。しかし、この時に改めて仏教の一派として生きる道を選びます。多くは天台宗派に属し、より仏教とのつながりが色濃くなりましたが、信仰心は何ら変わることは無く、現代でも息づいています。それは行者の山岳信仰の根底にあるものが「自然を敬う」という、いつの時代にも普遍的に存在する思いだからかもしれません。現代の行者が鳴らすほら貝の音は、初寅会での大護摩供などで聞くことができます。

初寅会
初寅会
初寅会
初寅会


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