長岡京・平安京遷都を命じた桓武天皇の実父にあたる光仁天皇の勅願所であり、明治政府の要人として活躍した有栖川宮幟仁(たかひと)親王・熾仁(たるひと)親王をはじめとする有栖川宮家の祈願所であるなど、神峯山寺は中興時から皇族と深い繋がりを持った古刹です。その証として、境内には天皇直系の所縁であることを表す『十六八重菊』が刻印された建造物が点在しています。ここでは、神峯山寺と皇族との関係について紐解くことにしましょう。
――その始まりは、桓武天皇が長岡京遷都を命じるより少し前の時代。先代・光仁天皇は、774年に息子の開成皇子に対し、既に修験道(山岳信仰)の開祖・役小角により開山された神峯山寺の中興を命じました。当時の修験者達は熊野山・吉野山・葛城山など畿内の霊山を駆け抜け、神峯山もまた龍神が宿る地として栄えていました。一説では、中興の理由は、長岡京周辺の仏教による思想統一を図る思惑があったからだとも言われています。
また、皇族が霊山・神峯山を重要視したもう一つの理由として、峯々を駆け抜ける修験者達が持つ「情報ネットワーク」がありました。真意は定かでありませんが、政治を司る皇族は、素早い情報収集・伝達のために彼らの性質を活用していたとも推察されています。とまれ、光仁天皇の命を受けた開成皇子は神峯山寺をはじめ周辺の寺院を次々と中興し、それらを勅願所として後世に残していったのです。
やがて都は平安京へと遷都され、806年には中国より天台教学を持ち帰った最澄が比叡山で天台宗を開きます。桓武天皇が最澄を援助していたことから、以降、天台宗は皇族所縁の宗派として全国へと伝播していきました。開成皇子の手で中興された神峯山寺もまた、その流れから平安初期に天台宗寺院となり現代に至ります。境内には光仁天皇御分骨塔(十三重塔)や開成皇子御分髪塔(五重塔)が、今なお静謐に神峯山寺を見守り続けています。
さて、時代は平安中期の貴族文化へと移ろい、鎌倉時代には武士の台頭が始まります。その後の数百年、皇族との所縁が記された文献は残されておらず、神峯山寺は鎌倉時代から江戸時代にかけて一般民衆や戦国武将、大坂商人との絆を深めていくこととなります。一度は皇族との関係が切れてしまったかの様に思われましたが、それを払拭したのが、宝塔院(本坊)で見つかった伏見宮邦家親王直筆の掛軸でした。
伏見宮邦家親王は、かつて皇位継承候補としても名が挙がったことがある伏見宮貞敬(さだゆき)親王の第一王子。その直筆に「日本最初毘沙門天」とあり、その御裏書までが残されていたことから、神峯山寺が毘沙門天最初の出現地であったこと。また、平安中期以降も変わらず皇族が帰依していた場所だったということが明らかになったのです。その繋がりの強さは、境内各所にある『十六八重菊』が何よりの証明となっています――。
(参考:神峯山寺秘密縁起)